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細川貴英のブログです。

「韻問題」そして韻とダジャレの違い

先週放送された「ナカイの窓」のラッパースペシャル。その中でR-指定が言及していた「韻問題」について、深く考えてみる。

 

韻問題って何?

「ラップでは韻を踏むべきか、それとも踏まなくてもいいか」という、長年にわたり議論されてきたが未だに結論の出ていない問題。

m.c.A•Tは、同番組内で「自分たちの時代は韻が浸透しておらず、韻を踏むとダジャレと思われるため意識的に踏まないようにしていた」との旨の発言もしていた。

 

韻とダジャレの違いって何? 

これは何度も説明してきたけど、「アルミ缶の上にあるミカン」がダジャレである理由は、 「あるミカン」の部分が、母音だけでなく子音まで同じになっているってこと。

一方で韻は、母音を合わせるだけでいいから、「アルミ缶」と韻を踏みたいのなら「待つ時間」「熱いパン」「ガスピタン」とかでいい。

あるみかん

まつじかん

あついぱん

がすぴたん

こんな感じで、全部母音が「あういあん」っていう具合。

 

たとえば番組内では、「近藤春菜」と韻を踏めと言われてR-指定が「温厚な豚」とdisるシーンがあったけど、

こんどうはるな

おんこうなぶた 

で、両方とも母音が「おんおうあうあ」になっている。こんな感じで少なくとも母音が合っていれば、韻。

 

一方で、中居くんが番組内で披露していた即興ラップ「春菜、食べるな、頑張るな」は、頑張って「るな」を子音ごと合わせようとしてしまうがあまり、2文字以上踏むことができなくなってしまった(けど、もちろん初心者で即興であれだけラップができた中居くんは、普通にすごいと思った)。

大事なのは、韻を踏むときは子音のことは忘れていいということだ。たとえばラップに興味がない人に「遠足」で韻を踏んでみてってお願いすると、だいたい「豚足」とか「反則」とかが返ってくる。「そく」を子音ごと合わす必要はないのに。それより「煙突」とか「メントス」とか、母音が4文字とも「えんおう」で合ってることを重視すべき。

 

韻で重要なこと

子音は合わす必要がないんだから韻のほうが条件は緩いわけで、条件が緩い分「数をこなす」ことと「メッセージ性をちゃんと持たせる」ことが重要になってくる。

 

ここで言う「数をこなす」というのは、「るな」「ぶた」の2文字だけで踏むのではなく、「こんどうはるな」「おんこうなぶた」の7文字で踏む、という意味の数(韻の文字数)

そして、「こんどうはるな」「おんこうなぶた」の2回だけ韻を踏むのではなく、さらに「根性あるな」「ほんとグダグダ」を追加して4回にする、という意味の数(韻の回数)

 

この韻の文字数と、韻の回数という二つの意味での数を増やしながら、メッセージ性を保つことも重要。「アルミ缶の上にあるミカン」は、別にミカンがアルミ缶の上に置いてあったところで別に誰も嬉しくも悲しくもないけど、「近藤春菜、温厚な豚」はdisとして成立している。

 

これが、韻とダジャレの基本的な違い。

 

で、韻問題はどうなのか

韻問題について書こうと思ったのに、韻とダジャレの違いについて書いてしまった。でも実は、このダジャレとの違いをこれだけ説明しないといけないことこそが、韻問題の核心のような気もしている。

 

ラップで韻を踏むべきかどうかについて、僕の考えは、そりゃ踏んだほういいと思う。だって踏んだほうが聞いてて気持ちいいもん。でもそれは、韻を踏もうとするがあまり、本来言いたいメッセージから逸れてしまうということがない、という前提での話。

 

韻問題は、「メッセージ性を犠牲にしてまで踏んだほうがいいか」が論点なのであって、同じメッセージ性を保てるのであれば、そりゃ踏まないより踏んだほうがいいに決まってる。たとえば「あのとき俺は高校生」って歌詞があったとして、そのあと「そして東京に出てきた」って言いたいとする。このとき「東京に」「東京へ」とまったく同じ意味だから、それなら「高校生」と韻を踏んでいる「東京へ」ほうを選んで「そして出てきた東京へ」にしたほうがいい。

 

ここまでは、誰もが「絶対踏んだほうがいい」と思う部分で、韻問題の範囲外な気がする。問題はこのあと、この韻にしばられて、言いたくもない言葉を並べ出したり、逆に言いたいことが言えなくなってしまったりすることなんだと思う。

 

日本人の韻リテラシー 

韻を踏むと伝えたいメッセージから少しずれてしまうような場合、どうするかの判断は、「頑張って母音を合わせたことを評価してくれる人がどれだけいるか」に完全に依存する。これが、まさに僕が「韻リテラシー」と呼んでるもので、m.c.A•TがDA PUMPに韻を踏ませなくて正解だったのも、国民の韻リテラシーが追いついてなかったからだと思う。

 

当時と比べて、今、国民の韻リテラシーが上がったかというと、たいして上がってないと思う。だから現状では、韻を踏まなくてもそれで言いたいことがちゃんと言えるなら、それでいいと思う。

 

ただ、韻を踏まないんだったら絶対に、ちゃんと言いたいことを言え、とは思う。中途半端な韻みたいな韻じゃないやつを残して、そのせいで言いたいこと言えてないのは最悪だ。言いたいことも言えないし、踏みたい韻も踏めないこんな世の中は、まじで、ポイズンだ。

 

まとめ

途中で「言いたいことが言えない」って話になってからは、ただポイズンって言いたいだけになってしまって申し訳ない。でも、ポイズンって言いたいのにそれを言えないこんな世の中じゃそれこそがポイズンだから、言ったし、後悔もしてない。

 

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